水仙の歴史

越前水仙の歴史に触れてみてね。
水仙と華道・茶道とは結びつきが深いんですね・・・


◆◆福井の水仙◆◆

 越前水仙の始原については、平安時代に対馬暖流にのって中国から流れ着いたという説や、室町時代に遣唐使が持ち帰ったという説などがありますが、この事を実証する根拠は現在のところ見つかっていません。
スイセンが日本史上にあらわれるのは平安時代末期で九条良経(1169〜1206)が描いた色紙だとされており、その後15世紀に入ってからは各種文献で見受けられるようになってきています。
室町時代になって最初にスイセンが記録されたのは、東麓破衲の漢和辞書『下学集』文安元年(1444)の早木門に、漢名を「水仙華」、和名を「雪中華」と紹介した記述です。
また、一条兼良の『尺素往来』(1450頃)では春の花として分類されるほか、京都祖国寺の公用日記『蔭涼軒日録』文正元年(1466)正月14の條には、足利将軍に水仙を献上したという記録など具体的なものが続くようになってきます。 
この『蔭涼軒日録』は、越前水仙の歴史を知る上で重要な古文書であり、室町時代に国府(現武生市)の妙法寺(今も妙法寺町と名が残されている)から祖国寺を経て、将軍家に毎年水仙が献上されたという記述があり、すでにこの頃福井県での水仙栽培をうかがわせています。
江戸時代になると、各地産物党書である松平文庫『越前国福井領産物・越前国之内御預知産物』のひとつとして水仙が記載されています。
これは、産業としてのスイセンに関する歴史的記述であり、のちの時代に編纂された『丹生郡誌』の出荷量等の記録とあわせて、越前水仙の歴史を知る上で貴重な資料となっています。


◆◆茶道に見る水仙◆◆

 室町時代後期、村田珠光によって確立された「侘茶」の系譜は、その弟子である堺の豪商、武野紹_から津田宋及、今井宗久らを経て、天下一宗匠と呼ばれた「千利休(宗易)」により芸術の域にまで高められ、今に続く「茶道」が完成したといわれています。
茶道における水仙は、戦国時代から「茶花」として用いられ、茶会の時期に見合った季節の花の代表格として珍重されていたようです。
16〜17世紀にかけて催された多くの茶会の記録(茶会記)が残っており、この時代に使われた「茶花」を詳細に研究した統計」によると椿237回、梅152回、水仙84回、菊81回など、当時79種程の茶花の中で第三位にランクされ、冬に催される茶会の代表的な花であったことが分かります。
特に、安土桃山から江戸時代初頭にかけて活躍したスーパー文化人、小堀遠州(1579〜1647)は水仙を大変好んだと見えて、寛永4年(1627)11月6日、遠州49歳の時
“丸獅子耳付花器”にはじめて使って以来、正保2年(1645)の茶会まで65回も水仙を使ったという記録が残っています。
この時代の水仙」はもちろん冬の花であり、季節の風情を貴ぶ茶道において、雪の白さにも似た水仙の透明感が茶人の心を魅了したのでしょう。
今では、周年開花に成功した越廼村の水仙が年間を通して楽しまれています


◆◆華道に見る水仙◆◆

 中国から伝来し、日本の習俗とも深く係わってその歴史を飾ってきた水仙は、いけばなの成立期とされる室町時代の記録(蔭涼軒日録)に既にその名が見られます。
この時代の「立て花」から時を経て「立花」へと展開していく過程において、いけばなの花材として水仙が重用されるようになり、冬に咲く数少ない花として松、杜若、蓮、菊と並ぶ「五一色」の一つにまで数えられるようになっていきます。
江戸時代になって、華道が爛熟期を迎える頃には「一に水仙、二に万年青」といわれ、さまざまな秘事、秘伝、口伝が生まれました。
池傍専養が校閲したとされる『立花聞書集』延宝5年(1677)には、「祝儀に用ふべき類の中に松、梅、柳などと共に水仙が挙げられており、これなどは、めでたい花として水仙が親しまれた様子がうかがえる記録です。
茶道の歴史的変動の中で、年代が古く、確かな立花図のうち水仙を扱ったものとしては、32世池傍専好の立花図があります。
これは「水仙一色」といわれる挿し方で、水仙を主体として胴に著莪や萱草を、前置は金銭花(金盞花)が遣われています。
立花の挿し方を要約解説した『立花大全』天和3年(1683)の「水仙一色」の頃には表面的に気づかない心得が記載されています。また、貞享5年(1688)に刊行された『立花秘伝抄』の「水仙花」の頃には「水仙は五一色の其の一ツなり。一色のみにかぎらず、常の立花にも、一に水仙、二におもとと云伝へ最上の秘事なり」と称賛された記録も残っています。
以後、立花における水仙の花伝に大きな変化は見られず、延宝、貞享以来300年余の伝承を経て現在に至っています。


(水仙ドームの資料を参照)

このページの先頭へ戻る